僕の周りには結構宗教が偏在していたようで、「友人」の名を語って宗教勧誘をしてきた友人は、幸か不幸か一人や二人では無かった。
学生時代には4人の友人から別々に誘われたのだけれど、全てがカルトだった。僕の定義では、なんだけど。
カルト宗教のマインドコントロールから家族を守る方法、救出法:よくある大失敗の防ぎ方
7/18(月) 13:19
■信教の自由と破壊的カルト宗教による被害
私たちには信教の自由があります。新興宗教をはじめ、どんな宗教を信じるのも自由です。しかし、信者をだまし、悪質なマインドコントロールを使う「破壊的カルト宗教」は、許されません。そんな危険なワナから、家族を守りましょう。
「yahooニュース」より
こんな記事を見かけたので、そんなことを思い出した。
だけれども、よくよく考えて見ると近所にもそれっぽい人が住んでいるんだよね。隠している風でもないし。あそこは確か天理教か何かだったような……。天理教であればカルトではない、か?
ともあれ、僕の実体験からしても、おそらく新興宗教からの「救出」は容易ではない。宗教は理論を超越したところに存在するからだ。
ああ、先に僕自身は宗教を信じてはいないのか?について言及しておきたい。
僕自身は神道の信者ということにしてある。実父の家系は代々神道だったから嘘ではないが、実に緩い感じで信仰している。ただ、緩くても信仰している事実はあって、無信心論者ではない。
カルト宗教の見分け方
設立から200年経過していないような宗教はカルト認定で良い
さて、カルト宗教とは、学術用語としてはカリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な信者の集まりを指すようだ。
かつて問題視されたオウム真理教にしても、今回問題視されている統一教会にしても、宗教というのは千差万別であり厄介な存在である。
もちろん、日本国憲法20条によって日本における信教の自由は保障されていて、それは戦前であっても大日本帝国憲法28条によって同様に保障されていた。
人々の心を守る為に、信教の自由は保障されるべきだとは思うので、だから、誰が何を信じていようと自由ではあるのだ。だがそれは内心の自由を保障するものであって、他人に押し付けてはならない。
で、じゃあ、カルト宗教はダメかというと、おそらくそんなことは無い。ただし、出来上がってまもなくの宗教というのは、教祖を中心とした狂信的なまでの求心力があることが多く、それは時として人を不幸にする。
まだ少しだけ話を聞いただけなら、離れるように言えば良いでしょうが、深く関わるようになってしまっていれば、引き離すのは簡単ではありません。
「yahooニュース」より
重ねて言うが、信仰心というものは悪ではない。
ただし問題は視野狭窄に陥って善悪の判断がつかなくなるということがあり、カルト宗教に特にその傾向が強く、更に問題なのは自身が問題のある状態におかれているかどうかに気がつけないことである。
では、何を以て「カルト」認定するのかと言えば、ザックリ成立から200年経っていないのはカルト扱いで良かろう。そういう宗教を信仰している方は、全員、今一度自身は大丈夫なのか?と、点検し直すことをオススメする。
一番やっていけない事は、周りの人や友人達に迷惑をかけることだ。どんな教義であれ、やってはダメである。どんなに素晴らしい教えであっても、他人に押し付けることは迷惑なことなのだ。
強烈なカリスマが厄介
「カルト」でなければ安心かと言えば、そうではない。しかしカルト宗教の危険性がより高く、得てして強烈なカリスマというのは人の心を蝕む。
それは、アイドルオタクが推しアイドルに全てを捧げるが如く、信仰心の深さは己をどれだけ捨てられるかという議論になりがちだからである。
宗教は成立後、急速に成長し、その後に緩やかに衰退するのだが、社会に組み込まれると薄まりながらも緩やかに浸透してゆく。社会に組み込まれたような宗教であれば、その毒性は薄くなるのが一般的ではある。
よって、カルト宗教の方がリスクが高くなりがちなのだ。
なお、こういったリスクは宗教だけに留まらない。政治的志向、例えば共産主義などは宗教に近い考え方だし、アイドルオタクやアニメオタクだって、まあ言ってみれば宗教に近い考え方ではある。
幸いにも、ドルオタやアニオタは一過性のものが多く、実害は少ないことが多いんだけど。
足抜けは困難
家族が宗教に捉えられた、脱会させたいけれど
では、周りが見えなくなった信者さんが、自分ではなく自分の家族だったらどうすべきだろうか?
信仰心を試されて、次々と喜捨などと称して、お金を注ぎ込む。生活の全てを宗教に捧げていってしまう。そんな家族をどうしたら良いのだろうか?
子供や妻、あなたの愛する家族が、何かのサークルに入りました。あるいは、占いや、聖書や仏教の勉強をすると言っています。まあ、別に良いだろうと思っていると、次第におかしな言動が見られるようになります。
ここであなたは気づきます。怪しい団体ではないかと。あなたはすぐにネットで調べるでしょう。すると、良くない情報が次々と出てきます。
そこであなたは、慌てて家族に話すことになります。カンカンに怒っていることもあります。
「お前が信じている宗教は、こんなインチキ宗教だぞ!」「教祖は、ひどいペテン師なんだぞ!」
鬼の首を取ったように、勝ち誇ったように、その組織の悪口を言い立てます。
しかし、これはとてもまずい方法です。
「yahooニュース」より
記事ではこんな事が書かれている。
多くの場合、妄信的に宗教にのめりこんでしまうのには「原因」がある。それを家族ではなく、宗教が取り除いたのだとしたら、おそらく本人が信仰から足を洗うことは難しい。
前述したように、自身を客観的に見る事は平時においても困難だ。信仰に実を委ねていれば更に客観化は難しい。
何人も内心の自由を侵すことは出来ない。そういう意味では、強制的にその組織から引き離そうとすることは、あまり得策とは言えない。
結局のところ本人の選択
何故なら、宗教というのは「教えを信じること」であり、それを信仰している状態で外からそれを否定しようというのである。良くも悪くも本人次第なのだ。
記事でもこんな事が書かれている。
・非カルトの世界へ目を向けさせる
カルト以前の人間関係、夢や目標を思い出させます。以前一緒に行った楽しい家族旅行のことなど、楽しく思い出を語るのも良いでしょう。
・選択させる
カルトの教団組織にとどまるか、脱会するか、様々な情報を知った上で、選択できるようにします。強制させられると思えば、その話し合いに近づきませんし、無理強いしても、すぐに戻ってしまいます。
「yahooニュース」より
客観的に物事を見る事のできる他人から、他の選択肢を提示される。
おそらく宗教側はこれを否定して来るだろうから、否定することのおかしさを説くときに信者でない人間がそのカルト宗教を否定するのでは説得力を出せない。僕は否定しないから、アナタも否定しないで、というしか無いのである。
身内の恥を晒すようで恥ずかしいのだが、僕自身の近くにもそういった人物がいた。そして、その人物は今なおその道から抜け出せてはいない。家から多額の金銭を持ち出した事実を知って個人的にかなり引いたけれど、本人はおそらくそれでも幸せなのだろうし、その事を「犯罪行為」だとは思っていないと思う。
結局、多くの場合問題になるのは、宗教によって社会規範のルール認識を書き換えられてしまうことにあると思う。
こうした思考形態は、宗教活動を離れたところにもある。活動家の皆さんは自信の信ずる行動をする時に、正しい事を実現するのだから多少法規範に反しても問題がないという思考形態を示す。それは即ち宗教における問題点と何ら変わらない。
結局のところ、国家に属する国民が守る必要のある法規範を歪めてしまうことがままあるのだけれど、本人達はそれを「問題がない」と考えてしまう。そしてそれを覆すことが難しい。
何しろ、僕らには宗教家にある強烈なカリスマを上書きできるだけのカリスマなど無いのだから。
「抜け出す方法」と書いて「諦めろ」では話にならないが
但しその上で、最も有効なのが家族の絆であり、また友情であるのだから、第三者からの助言によって「洗脳状態」から解けることを期待するしかない。
どうして「諦めろ」という話になるのかといえば、自分が抜け出すということは客観視が難しいからである。客観視できる他人からの助言も宗教の外から言うことでは本人に届きづらい。
根本的な部分は「認識の違い」だからである。
認識を塗り変えられる強烈なカリスマによってやられてしまった本人を、家族の結びつきという弱い絆で「取り戻す」ことは極めて難しい。彼らはそれだけをやっている言わばプロで、こちらは素人なのだから。
従って、家族が宗教に囚われてしまった事を気がついた時には、時既に遅しであり、最低限、他人様に迷惑をかけないことだけを約束させることが出来れば御の字だろう。
保護者であれば最低限その責任があり、その責任を果たせない時にはこちらから手を離す(注:不法行為です)という荒療治も必要になるだろうが、そこで手を離してしまったら、もはや取り返すことは難しい。
それと、家族が宗教に囚われてしまった場合に、そこから救い出すためにはその人もその宗教のことを調べねばならないのだが、深淵を覗き込んだときにはその深淵もこちらを覗いているという具合に、ミイラ取りがミイラになりかねないリスクもある。
良くも悪くも適切な距離をとるべきなのだ。
僕自身は何故宗教に染まらなかったか
では、何度も信者さんからの勧誘を受けて、僕自身はそれらの宗教を信じることはしなかったのかと言えば、1つには「身内の恥」とした「前例を知っていた」からである。
僕を勧誘してきた勢力は、創価学会、崇教眞光、統一教会(おそらくその分派)、の3つだったが、創価学会には随分とお世話になった。いや、都合4人ほどに勧誘を受けた。
彼らの教義は面白かったし、凄く仲良くさせて貰っていた友人が創価学会員だったので、集会にも2~3度行った。強烈だったのは、幹部らしき人の話を聞いた時だったが、おそらく、この人に熱心に誘われたら断れなかっただろうという体験はした。
崇教眞光は合宿に誘われたけれども、流石にお断りした。統一教会は、壷を買わされる話が出回っていたので、話を聞く前にサクッとお断りして近づくことはしなかったな。
彼らのロジックに共通するのは、どうやら信者獲得が信仰心を高める一助になるというような教えになっていることで、「徳を積む」とか「信心する」とか言っていたのだけれど、基本的にみんな良い人だった。
おそらく一緒に何かをやれば楽しかったと思うし、彼らにとって布教活動は「正義」であり「他者を救う」信仰に他ならないので、悪意が無いだけに厄介である。
では何故その話に乗らなかったのかと言えば、「それを目的で友人として近づいてきたのか」と、感じたからだ。そして、何れのケースでも一方的に関係を清算した。きっと彼らにとってそんな積もりはなくって、100%善意だったのだろうからとても嫌なヤツに映ったと思う。今は少し後悔しているが、時間は戻らないものだから仕方が無い。
何にせよ、信仰するか否かは結局、本人次第ということになってしまう。多分、タイミングが悪ければ絡め取られていた可能性は高いのだ。
ただ、幸いにもそうはならなかった。僕自身は拙い自分のことを自分で考えるということを放棄しなかった。
選択肢の提示
とまあ、救いの無い事を書いてしまったのだけれど、ポイントは信仰の道に入ってしまった人は、考える事を他人に任せてしまったということである。
事の善悪の判断を他人に預けてしまった。
そうであるのなら、宗教の道に入ってしまった人に対して、他人を信じる前に自身のことを信じてあげて欲しいと、僕はそう思う。
そして自身がどういう立場になったのならば、周りに迷惑をかけていないかを出来るだけ客観的に考えるべきだろう。
考える事がシンドイのであれば、家族に一緒に考えて貰う。逆に言えば、本人を信じてあげるしか家族にはやってあげられることは無いのである。そのためにも話し合うことが必要で、この時大切なのはどちらかが上と言うことではない。
だから、信仰以外の選択肢を提示してあげること。これは記事にも書いてあるのとなので二番煎じと言えばそれまでなのだけれど、縁を切る前に信じて挙げて欲しい。最後には関係を清算するしかないのだけれど。
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